社会的視点からの科学論関連著作

古典的著作
Merton, R.K(1938) .”Science, Technology and Society in Seventeenth Century England” Osiris, Vol.4, pp. 360–632
下記より全文ダウンロード可能
http://lc.zju.edu.cn/sts/TuShu%5Cupfiles%5Cb8a37bd6-e743-4fab-82be-7dd2231ededf.pdf
本文はpp.360-619、文献一覧がpp.621-624、人名索引がpp.625-630、目次がpp.631-632となっている。内容目次は別項に掲載した。
 
ベー・エム・ゲッセン『ニュートン力学の形成 : 『プリンキピア』の社会的経済的根源』(秋間実、稲葉守、小林武信、渋谷一夫訳 法政大学出版局 一九八六年)
 
F・ボルケナウ『封建的世界像から市民的世界像へ』(水田洋ほか訳 みすず書房 一九五九年)
 
E・ツィルゼル『科学と社会』(青木靖三訳 みすず書房 一九六七年)
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相対主義的科学論 — ブルアとファイヤアーベントにおける「平等」主義的議論

「平等」主義的科学論---社会学的視点からの相対主義的科学論
社会学的視点からの相対主義的科学論を展開した代表的著作に、デ-ヴィッド・ブルア『数学の社会学 ―― 知識と社会表象』(佐々木力・古川安訳 培風館 1985年)がある。
ブルアは「ストロング・プログラム」説を提唱し、科学も知識社会学の適用対象と考える立場から、真なる科学理論も偽なる科学理論のどちらも知識主張knowledge claimとして社会学的には対称的な、すなわち、「真と偽を差別せず平等な」取り扱いをすべきであると主張した。すなわち、「天動説、フロギストン説、ルイセンコ説など偽なる科学理論が受容されていた」というような経験的事実は社会的要因から説明し、「地動説、ニュートン力学、量子力学、相対性理論など真なる科学理論が受容された」というような経験的事実は科学的要因から説明する非対称的な、すなわち、「真と偽を差別する不平等な」取り扱いを不適切として批判し、真なる科学理論も偽なる科学理論もどちらも社会学的に「平等」な取り扱いをすべきだとしている。
こうした意味において、チャルマーズは『科学論の展開』改訂新版(高田紀代志、佐野正博訳 恒星社厚生閣 2013年)の第11章末において、こうしたブルアのような立場に立つ人々を平等主義者the levellersと呼んでいる。
ブルアのようなこうした平等主義的アプローチに対して筆者は、歴史的な「科学」的仮説としてプトレマイオス的天動説、ティコ・ブラーエ的天動説、フロギストン説を古代地動説、コペルニクス的地動説などと平等に科学論的ディスクールにおいて扱うことには賛成するが、ナチズムの立場から相対性理論などを批判した「ナチス科学」や、神の創造を科学的と信じる「創造科学」説(creation science)などのような議論までも含めてすべての知識主張を「科学論」的に平等に扱うことには反対である。
「ナチス科学」や「創造科学」、あるいは占星術まで含めてすべての知識主張を平等に扱うのは、「科学社会学」的には適切なことであろうが、「科学論」的には不適切である。
宗教的イデオロギーとしての天動説は別として、プトレマイオスの周転円説的天動説は多数の観測データを理論的に説明・予測できるという意味で歴史的=社会的に科学的なものであった。周転円説的天動説は科学的仮説として取り扱われたがゆえに、金星の満ち欠けに関するガリレオの望遠鏡による観測データなどで科学的に偽であることが判明し、天動説としてはティコ・ブラーエの天動説に取って代わられたのである。
そしてティコ・ブラーエの天動説は、コペルニクスの地動説から数学的に導出可能であり、惑星運動に関してはコペルニクスの地動説と同等の説明能力を持っていただけでなく、年周視差などの観測データによって反証可能であったという意味で科学的な仮説であった。科学的仮説であったがゆえに、後に実際に年周視差や光行差などの観測データによって反証されて偽であることが明確になったのである。
このように、「科学的仮説として天動説も地動説も科学論的に平等に扱うべきだ」という主張は、何ら奇異な主張ではなく、ポパー的な反証主義科学観と共通する主張である。ポパー的な反証主義科学観などのように科学性の規定と真偽性の規定を異なるものとする場合には、科学的な知識主張とそうでない知識主張との区別が反証可能性などといった同一の普遍的規準によって区別されているし、真なる科学的主張と偽なる科学的主張との区別が観測データと理論的予測の一致といった同一の普遍的規準によって区別されている。このような説明においては、天動説と地動説という対立する理論のどちれも、「科学性に関わる普遍的規準」と「真偽性に関わる普遍的規準」という二種類の普遍的規準によって「平等」に取り扱われている。

ブルアらのような相対主義的科学論者が、知識主張に関する自らの社会学的取り扱いの特権性を主張し、知識主張に関する上記のような科学論的取り扱いの妥当性を否定するとすれば、彼らの主張は学問的には自らの知識主張の特権性を主張している非相対主義的議論であることになる。その意味では平等主義的ではなく差別的である。
もしブルアらの主張がそうした主張であるとすれば、「ガリレオは事実的データや理論的主張によってアリストテレス的自然学の立場に立つ競合者に対して説得的な主張を展開することは、望遠鏡に関する科学的な説明がまだなかっただけでなく年周視差や光行差などの観測データがまだ得られてはいなかったガリレオの時代には、現代的視点から見て不可能であった。それゆえガリレオはイデオロギー的議論や策略を必要とした。」と断定するファイヤアーベントと同じく、非歴史的で非相対主義的なのである。

ブルアに対する上記のような反論における前提的主張としては、「ある理論が科学的とされるかどうか?」の判断規準、および、「ある理論が真であるかどうか?」の判断規準は歴史的に不変であるということがある。歴史的に変化したのは、判断「基準」ではなく判断「材料」である。
「古代や中世の時代においてプトレマイオス的天動説は科学的であった」と主張することは科学性の判断「基準」から考えて妥当な知識主張である。逆に「古代や中世の時代においてもプトレマイオス的天動説は非科学的であった」と主張することは科学性の判断「基準」から考えて妥当ではない知識主張である。
「古代ないし中世では、年周視差や金星の満ち欠けが地動説から予測されるようには観測できない」ということを判断「材料」として、プトレマイオスが『アルマゲスト』で書いているように「天動説的理論の方が地動説的理論よりもより科学的であると判断すること」は不当な間違った判断であるとまで断定することは科学論的にも科学史的にも妥当ではない。
しかしプトレマイオス的天動説の天文学的誤りを示す観測データが発見されたガリレオの時代以降になってもなお、「今もプトレマイオス的天動説は科学的である」と主張するのは間違いであろう。地動説やティコ・ブラーエ的天動説で予測されている通りに、金星が満ち欠けしていることを示す観測データという新たな判断「材料」の登場によって、プトレマイオス的な天動説は偽であると多くの天文学者たちが判断するようになったのである。「それでもなお、プトレマイオス的な天動説が真である」とする知識主張は、宗教的主張ではあっても科学的主張ではない。
ただしその時点でもなお、「年周視差が肉眼によっても望遠鏡によっても観測できていない」という地動説に不利な判断「材料」はまだ存在していたので、「天動説一般が偽である」とするような判断をその時点で下すのは天文学的には不適切であった。その意味において、その当時はティコ・ブラーエ的天動説は科学的に正当な知識主張であった。
年周視差や光行差などの観測データといった地球の運動を天文学的に示す新たな判断材料が18世紀以降になり登場したことによって初めて、ティコ・ブラーエ的天動説も含めて地球が静止しているとする天文学的理論すべてが科学的に偽であると判断されるようになったのである。

 もちろんファイヤアーベントはこうした反証主義的科学観に基づく反論を予期した上で自らの議論を展開したのである。「科学には唯一の普遍的方法がある」といった知識主張に対してファイヤアーベントは強く反論を試みている。
ファイヤアーベントによる普遍的方法への批判とは、どの科学分野においても共通に使われている(あるいは使うべきで)歴史的に変化しない普遍的規準が存在するという考え方への批判である。ファイヤアーベントによれば、反証可能性という判断基準はどのような歴史的時点でも使える判断基準ではないし、使うべきでもない。ガリレオの時代以前においては金星の満ち欠けに関する観測データは地動説を反証しているというように見えるにも関わらず、古代のサモスのアリスタルコスや近代のコペルニクスなどのように地動説を主張する行為は非科学的ではなかったと考えるとすれば、反証可能性といった普遍的規準が科学性の判断規準としてそれほど普遍的ではないと考えざるを得ないのである。
 ファイヤアーベントによる普遍的方法へのこうした批判は、科学性の規準に関わる様々な方法の平等主義的取り扱いを主張しているものとも理解できる。すなわちファイヤアーベントによる「なんでもかまわない」という反-普遍的方法論的主張は、さまざまな方法(ファイヤアーベントはそれを伝統と呼び代えているが)の「平等」主義的取り扱いを主張しているものである。

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物理学的視点からの「科学的自然像」論

カッシーラー, エルンスト・(山本義隆訳,1994)『現代物理学における決定論と非決定論』学術書房、280pp+32p
第1章 歴史的・予備的考察(「ラプラスの魔」形而上学的決定論と批判的決定論)
第2章 古典物理学の因果原理(物理学的命題の基本型)
第3章 因果性と確率(力学的法則性と統計的法則性 統計的命題の論理学的性格)
第4章 量子論の因果問題(量子論の基礎と不確定性関係,原子概念の認識論の歴史によせて)
第5章 因果性と連続性(古典物理学における連続性原理,「質点」の問題によせて)
最終章 最終的考察と倫理学的結論
 
 
ボーア、N・(山本義隆訳、1999『因果性と相補性』岩波文庫
 
 
「特集 物理法則と方程式–方程式を通してみた物理学的自然観」『数理科学』2005年6月号、サイエンス社
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会計学的視点からの科学論関連資料

冨塚嘉一(1997)『会計認識論:科学哲学からのアプローチ』中央経済社、169pp
第1章 さまざまな考え方や方法の検討
第2章 科学方法論の潮流—「科学」の高揚から懐疑へ
第3章 方法論が直面する課題
第4章 進化論的認識論の可能性
第5章 実証会計学の方法とその特質
第6章 実証会計学批判の検討
第7章 規範会計論再考
第8章 会計研究における方法論的枠組の探究
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